ここでは『整体すずのき』が二戸市に誕生するまでに至った経緯について、鈴木の半生を振り返らせていただきながらお話します。
長くなりますがお付き合いください。
第1章 誕生
1973年5月19日、岩手県南部の八重樫家の長男として生を受けました。
生後6か月の時に、いろいろあった様で、母親姓の鈴木となり、岩手県北部の一戸町の祖父の家に預けられ、おもちゃにまみれて甘やかされて育ちました。
親戚の叔父、叔母にあだ名をつけて喜んだり、祖父の家の廊下の壁にマジックを押し付けそのまま走り長い線を描いたり。やりたい放題だった様です笑。
祖母からは「このカンカラぼんず!」と、ちょっと何を言っているのか分からない事を言われたり笑笑。幼稚園が大嫌いで、脱脂粉乳を飲み切るまでは家に帰してもらえなかったり。そんな幼少期でした。

第2章:祖母の病気をきっかけに医療の道へ

5歳の頃、祖父が亡くなり盛岡の母親のところに引き取られた私は、学生時代を盛岡で過ごしましたが、一戸に里心もあり、学校の長期休みのたびに一戸に戻って過ごしていました。
祖母の家の2階の窓から、遠くの山々をぼーっと眺めるのが好きでした。祖母の作ってくれた卵焼きやら、ソーセージの朝ごはんが大好きでした。
町中の本屋さんやおもちゃ屋さんに歩いて行って、時間をつぶしたり、商店にいってガチャガチャを回したり。のんびりした生き方は一戸で学んだのかもしれません。
16歳の頃、たまたま盛岡に来ていた祖母が脳卒中で倒れ、入院しました。右の手足が不自由となり、立つことも歩くこともできなくなり、言葉を話すこともできなくなりました。そこで『病気で困っている人に対して何かできる人になりたい』と思い、理学療法士への道へ進むことを決めました。
盛岡の専門学校で学び、国家資格を取得。岩手県医療局に入局しました。県北の病院に配属になり、平日は二戸市で働き、週末は盛岡の生活が続きました。
当時は今と違い、長期の入院が可能であったため、母親は何年も入院していた祖母のところへ毎日見舞いに通っていました。私も週末になると盛岡に戻り、土曜の夜は毎週の様に友達と飲み歩き、それでも日曜の朝は母親と一緒に祖母の見舞いに行きました。そんな生活が、何年も続きました。
第3章:妻との出会い、そして結婚へ

女性に縁のなかった私は一生結婚することはないだろうなと思いながら日々を暮らしていましたが、そんな時に妻と出会います。
当時勤めていた病院で、患者さんに歌を聞かせるコンサート企画をやっていました。当時新卒だった私は先輩看護師からその企画に誘われ、断れるはずもなく参加。そこに妻がいました。
最初は特に意識することもなく過ごしていましたが、あるとき職員の関係者の子供たちがコンサートの練習に参加してきました。その時妻が楽譜を子供たちに渡していたのを目撃して、「優しい人なんだな」という印象を受けました。そんな妻といろいろあって笑結婚させて頂きました。
妻はいつでも私の味方でいてくれました。喧嘩をすることも、意見の食い違いもありますが、なんだかんだで味方でいてくれます。2人の子宝に恵まれ、2人を育てながら生活を続けてきました。
第4章:アイスホッケーを通して学んだ事

子育ての最中に、鈴木家はアイスホッケーに出会います。長男が小学2年生の時、興味を持ったのです。長男と一緒に幼稚園の年中だった次男も始めました。
Fコーチに「子供たちがどれだけ大変な事をしてるか分かるために、お父さんもやった方がいい」と勧められ、私も氷に乗るようになりました。
長男、次男と合わせて11年アイスホッケーと関わることになろうとは、始めたときは思いもよりませんでした。
Fコーチには、スポーツを通して、『ミスした時は皆でフォローしあう、助け合う』『勝ったときは自分の成果ではなく、子供たちの頑張りだ』という精神を教えて頂きました。
人としての生き方に通じるところがあると感じ、『良くなったときは自分の成果ではなく、患者さんたちの頑張りだ』と置き換え、今でも私の考えの根底となっています。また、尾骨骨折、脳震盪、膝痛、腰痛、喉への衝撃による呼吸困難、人間関係のストレス等々、様々な経験をさせて頂きました。一見するとマイナスに思えるこの経験も、後の学びへと繋がっていきます。
第5章:ケガ、病気、いきなりの失業
仕事関係では市内のリハビリテーション医療に貢献しようとして、県立病院から民間の医療機関に転職しました。
転職後は加齢のせいもあってか、転職当初から体を病むことが多かったです。結婚直後から患っていた胆のうも、20年近く放っておいた結果1か月に一度炎症を起こすようになり、胆のうの摘出をしたり、仕事上のストレスと患者さんへの責任感との狭間で悩み、毎日難しい顔をしている私。前職の上司には『幽霊みたいな顔だ』と言われてしまいました。
程なくして、ここでは言えない、いろいろな悩みから心を病んでしまい、適応障害と診断されました。
予期せず仕事を継続することが困難な状況となってしまい結果、失職しました。

第6章:支えてくれた妻と恩師
そんな時でも妻は私の味方であり続けてくれました『今の職場は辞めてもいいよ』『なんとかなるよ』『あなたなら大丈夫』と背中を押し続け、支えてくれました。そして、『あなたにはそんなことで悩まないで、患者さんを施術することだけに集中して、笑顔で仕事をしていて欲しい』と言ってくれました。
また、話は前後しますが、ここ数年のコロナ禍で、研修会はオンライン化が進み、私としては以前より知識が得やすい環境となりました。

そこで出会ったのが熊本県の天草で独立開業している理学療法士の山本龍誠先生ご夫妻でした。山本先生は幅広い知識を持ち、人間の構造的な面や、生理学での知識を用い、大変分かりやすい説明で施術技術を教えて下さいました。今も定期的に学ばせてもらっています。
また山本先生の奥様は心理学に長けている先生で、心理状態によって筋肉の緊張がガラリと変わる経験を私に体験させてくれました。岩手と熊本ほど距離が離れていて、体に触ることなく体の緊張を変えることができるのです。驚きでした。
現在私が主に使用している技術は、山本先生ご夫妻からの学びが主となっています。そしてご夫妻は、私の近況を大変気にしておられ、現状の相談に乗って下さいま した。遠く離れたところから、こんなに心配してくれるのかと、人の温かさを感じました。
このままではいけない、変わらなきゃいけない、困難に立ち向かわなければ。
第7章:そして開業へ
心を病んで、仕事を失ったものの、仕事がしたくないわけではありませんでした。
人の『痛い』『苦しい』状態を変えていけることは、私の生きがいでもありました。『早く病気を治して、また人と関わりたい。苦しんでいる人の状態を変えたい』病気で外を歩くのが、電話が鳴るのが怖くなってしまっても、いつもどこかで思っていました。
私がここ数年で学んだ知識、技術は、時間をかけて、落ち着いて、人を感じながら行う施術でした。
病院という環境より自分のペースで行なえる環境が適しているものであったことから、『これはもう開業する運命だったんだ、今まで心身を病んだのも人の痛みを感じるためで、私の人生に必要な事だったんだ』と思うことにして、今回整体院の開業を決意しました。

最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。
私事にお付き合いいただいた事に感謝いたします。
もし少しでも話を聞いてみたい、相談に乗ってほしい。
そう思っていただけたのなら、是非お気軽にご相談ください。
あなたの悩みに誠心誠意寄り添いながら、全力でサポートさせていただきます。
院長 鈴木透